ナショナル・ミニマムとしてのインターネットアクセスを考察する

 ナショナル・ミニマムとは、国家が国民全体に対して保障すべき必要最低限の生活水準を指す。この概念はイギリスのウェッブ夫妻によって提唱されたもので、賃金、労働時間、衛生、安全、保健、医療、住宅、教育、余暇、休息など、生活の再生産の全分野と生産力の増強に関わる問題として考慮される。我が国においては、憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定められており、これがナショナル・ミニマムに該当する。生活保護法や福祉各法などの法律や社会保険、雇用、教育などをはじめとする社会保障制度がこの考え方の基礎となっている。

 近年、インターネットは現代社会において不可欠なインフラとなりつつある。インターネットへのアクセスには、以下の様なメリットがある。
・情報収集:インターネットでは、教育、医療、行政サービスなど、様々な情報が発信されている。すべての人が平等に機会を得られるようにするために、インターネットへのアクセスは不可欠である。
・経済活動への参加:オンラインビジネスやフリーランス等での新しい経済活動の形を可能にしている。インターネットは新たな収入源を得るための機会となる。
・社会参加: インターネットは、人々がオンラインコミュニティに参加したり、ソーシャルメディアを通じて友人や家族、コミュニティとつながったりするのに役立つ。
 コロナ禍では、インターネットアクセスが生存権や教育権の確保に寄与したことは、我々の記憶に新しいであろう。

 ただし、メリットだけでなく、デメリットもある。デメリットとして、以下が考えられる。
・コストの問題:インターネットへのアクセスには、デバイスや通信費などのコストがかかる。低所得者にとって、これらのコストは負担が大きすぎる場合がある。
デジタルデバイドの問題:インターネットの利用には、ある程度のデジタルリテラシーが必要だ。デジタル機器の使用方法や、インターネット上の情報の信頼性を判断する能力がない人々にとって、インターネットは役に立たないどころか、有害な情報にさらされるリスクもある。
・プライバシーの問題: インターネットの使用には、プライバシーに関するリスクが伴う。政府や企業による個人情報の収集や監視の問題がある。
・ネット依存症の問題: インターネットの使い過ぎは、ネット依存症などの問題を引き起こす可能性がある。特に、子供や若者は、インターネットの害に対して脆弱である。

 一旦、目を海外に向けてみよう。インターネットアクセスは、表現の自由プライバシー権とともに、人権の不可分な一部として、2011年から2016年にかけて議論が盛んに行われ、国連ではインターネットアクセスを基本的人権として認め、政府による意図的なアクセス遮断を国際人権法違反として非難している。また、エストニアは2000年にインターネットへのアクセスを基本的人権とする法案を可決し、欧州連合EU)では、インターネットアクセスを基本的自由と同等に尊重するという見解が示されている。

 海外の動向からも今後我が国でも同様の動きが起こると考えられるが、以下の様な課題解決が必要である。
・コストの低減: インターネットへのアクセスにかかるコストを低減する。またはフリーWi-Fiの拡充。
デジタルデバイドの解消: デジタルリテラシー教育を充実させ、誰もがインターネットを安全かつ効果的に利用できるようにする。
・プライバシーの保護: 個人情報の保護に関する法制度を整備し、政府や企業による個人情報の不正収集を防止する必要がある。
・ネット依存症対策: ネット依存症の予防と治療のための対策を講じる必要がある。

 我が国では、Society5.0が提唱された。この構想では、人工知能(AI)、モノのインターネット(IoT)、ビッグデータなどの高度な技術を統合して、社会課題を解決し、新しい経済モデルを創造することとしている。このような社会では、インターネットアクセスは必要不可欠である。上記の対策がされた上で、ナショナル・ミニマムの範囲にインターネットアクセスが含まれる日も遠くはないであろう。

尾崎豊「卒業」 ~本当の自分に辿り着くために~

 巷では卒業シーズンとなりましたね。

 卒業ソングとして知られる尾崎豊の「卒業」は、その歌詞の内容から一般には不良ソングと言われることもあります。しかし、その歌詞には深い意味が込められています。


 「卒業」には、ただ学生や生徒が学校を卒業すると言う意味だけでなく、子どもから大人への変化や自己変革と言う意味合いも含まれています。人生に必要なのは、「夜の校舎」の「窓ガラス」を「壊してまわ」るようなことで自分たち若者を縛り付ける「信じられぬ大人」たちから自由を勝ち取ることと信じていましたが、実は「本当の自分に辿り着ける」こと、自分を新しく変化させていくことだったのです。


 翻って、現在の私たちはどうでしょうか。自分の自由を侵害する物事に怒り、好転しない環境に苛立っていないでしょうか。


 私たちは転生してチートキャラにもなりませんし、社会は簡単にゲームチェンジもしません。でも、小さな一歩からでもこれまでの自分から「卒業」してみませんか。自分や身の回りの課題に対して少しの変化やわずかな取り組みであっても行っていくことが、新しい自分やより良い社会に近付く最適解であると私は思っています。

アンパンマンとマキャベリズム 正義と悪の二元論からの脱却

 アンパンマンは、やなせたかしが原作者で絵本やアニメで知られています。アンパンマンは、誰にでも優しい性格を持ち、困っている人やお腹を空かせた人がいれば、どこへでも飛んでいく勇敢なヒーローで、長年に渡り子ども達に愛され続けています。


 マキャベリズムの語源となったニコロ・マキャベリは、ルネサンス期のイタリアの政治思想家で、外交官としても活動しました。マキャベリは特に「君主論」で知られており、この中で彼は君主が権力を獲得し維持するための指針を提供しています。また、「ディスコルシ」では、共和制を自由で安定した政体として評価し、君主制、貴族制、民主制の混合政体が最も理想的だと述べています。


 マキャベリズムは、一般的には「目的のためには手段を選ばない」、悪を推奨するものと解釈されることが多いですが、実際にはより複雑な倫理観を提唱しています。彼の理論は、倫理的なグレーゾーンにおける決断の難しさを認識し、リーダーが取るべき行動を指南するものでした。これは、道徳的な絶対主義からの脱却を促すものです。国家のリーダーは、時には既成の正義や悪徳を越えた倫理観で行動することが求められるとマキャベリは説いています。これは、政治的リアリズムとも呼ばれ、現実の政治状況においては、理想的な倫理観だけではなく、実際の状況に応じた柔軟な対応が必要であるという考え方を反映しています。

 

 一方、アンパンマンの物語は、子供たちに正義の重要性を教えるためのものです。アンパンマンは、困っている人を助け、悪と戦うヒーローです。しかし、敵であるバイキンマンを決して滅ぼすことはありません。これは、アンパンマンが、単なる悪の排除ではなく、バイキンマンの悪に内包する社会的正義を認め、改心と共存の可能性を信じているからです。アンパンマンの世界では、悪は絶対的なものではなく、社会の成長や繁栄に寄与し、社会のバランスや調和を保つために必要な要素であり、共存の道があるということを示唆しています。

 

 アンパンマンの正義とマキャベリズムは、一見すると相反するもののように思えますが、実は共通点があります。それは、どちらも状況に応じて柔軟な対応が可能であるという二元的な倫理観からの脱却です。アンパンマンの物語では、悪役であるバイキンマンに対しても絶対的な悪として扱わず、彼の存在がもたらす教訓や物語のバランスを重視しています。一方、マキャベリは、国家のリーダーが直面する複雑な現実を考慮し、国家の繁栄のためには従来の道徳観念を超えた行動が許されると主張しました。このように、両者はそれぞれの状況において、正義と悪の境界が曖昧であることを認識し、その上で最善の行動を選択しています。


 結論として、アンパンマンマキャベリズムは、正義と悪の間の微妙なバランスを探る上で、私たちに柔軟な洞察力を与えてくれます。私たちが直面する道徳的な選択は、白と黒の間の多くのグレーゾーンに存在します。それぞれの状況で、正義の追求がどのように異なる形をとるかを理解することで、私たちはより複雑な世界において論理的な判断を下し、より良い社会の形成に貢献することができるのです。

おあとがよろしいようで 喜多川泰

 「おあとがよろしいようで」は、喜多川泰氏の著作の青春小説です。物語は東京の大学に入学したばかりの主人公、門田暖平を中心に展開します。暖平がひょんなことから落語研究会に入部します。暖平は、自己発見と成長を通じて、個性を受け入れ、人々とのつながりを築いていく姿が描かれています。


 個性とは、「みんな違ってみんないい」。人は型を学んで同じようにできるようにしていくが、個々に違っていく。人と出会い、成長し、それぞれの道へ進んでいく。


 この物語は、私たちに個性の尊さと、人々との出会いがどれほど重要であるかを思い出させてくれます。そう、個々の違いが、私たちを豊かにし、成長させてくれるのです。

熟達論 為末大

 為末大氏の著書「熟達論」は、人生を極めるためのバイブルとして、基礎の習得から無我の境地まで、人間の成長には「遊」「型」「観」「心」「空」の5段階があると説明している。

 これは、宮本武蔵の「五輪書」になぞらえて紹介されているものであり、為末大氏自身の半生と、様々な分野の達人たちとの対話を通じて辿り着いた方法論が融合した現代の「五輪書」と言えるだろう。

 「空」を究極の段階としながらも、「遊」から始まり「遊」に戻り、人は学び続けるのだと為末大氏は言う。まるで浜辺で砂のお城を夢中で作る子どもの姿のように「空」は余韻でしかないのだ。