「関係人口―都市と地方を同時並行で生きる」を読んで

 昨年6月に閣議決定され、本年度から運用が開始される「ふるさと住民登録制度」は、本書の著者、高橋博之氏が長年にわたり提唱し、ロビー活動を続けてきた成果が制度として実を結んだものだ。理念を語るだけでは社会は変わらない。本氏の制度設計や政策提言を通して社会を変えていく姿勢には大きな説得力があった。

 本書の核となる考え方は、「都市と地方をかきまぜる」という表現に集約される。地方創生というと、地方に大企業やスタートアップを誘致し、人口を増やし、都市と同じ姿を目指す「ミニ東京」をつくるような発想になりがちである。しかし、高橋氏はそれを否定する。地方には都市にはない価値があり、その価値を失わずに都市とつながることで、新しい地域の姿が生まれるという考え方である。

 また、東京一極集中と地方の過疎を単なる地域間格差としてではなく、日本社会全体の構造的な問題として捉えている点も印象的だった。都市と地方は対立する存在ではなく、互いに支え合う存在であり、その橋渡しとなるのが「関係人口」である。

 本書を読んで最も共感した言葉は、「過疎とは慢性的な災害である」という一節である。この表現は、私自身が能登半島地震の支援活動を通して感じたことと重なった。

 災害は一瞬にして地域を変えてしまう。しかし、その地域は災害以前から人口減少や高齢化という「ゆっくり進行する災害」に直面していた。富山県にも消滅可能性自治体が存在するが、能登半島地震は、その可能性の時計の針を一気に早めた出来事だったのではないかと感じている。災害は人口減少を加速させ、地域の担い手を失わせる。その意味で、過疎と災害は決して別々の問題ではなく、一つの連続した課題として考える必要がある。

 また、防災の分野で耳にした「防災士をネットワーク化し、それぞれの目に見える範囲を広げることが防災・減災につながる」という言葉も思い出した。一人で見守れる範囲には限界がある。しかし、人とのつながりが増えれば、その分だけ地域を見る目が増え、異変にも早く気付くことができる。この考え方は、本書でいう「関係人口」と本質的に同じではないだろうか。

 つまり、地域を支える人は、その地域に住んでいる人だけではない。定期的に訪れる人、応援し続ける人、離れていても地域を気に掛ける人など、多様な関わりが地域の力になる。関係人口が多い自治体ほどレジリエンスが高いと言われるのも、人とのつながりが多い地域ほど、平時も災害時も支え合う力が働くからである。

 私はこれまで「防災・減災」という考え方を、防災計画や備蓄、避難訓練などを充実させることだと考えていた。しかし、本書を読んで、その概念はもっと広いものではないかと「事前復興」という考え方から気付かされた。事前復興とは、平時から関係人口を増やし、人と人とのつながりを育み、地域のレジリエンスを高めていく営みそのものである。災害が起きてから復興を始めるのではなく、日頃から地域に関わる人を増やしておくことが、最も重要な「防災・減災」なのかもしれない。

 一方で、本書には都市部の読者へ向けたメッセージ性が強い印象も受けた。しかし、日本の人口の多くは都市部で生活していることを考えれば、地方との接点を持つきっかけを都市生活者に提示するという著者の意図は理解できる。また、政策提言や制度改正への言及が多く、政治色の強さを感じる場面もあった。しかし、社会を変革するためには制度を動かす必要があり、そのためには政治との関わりやロビー活動は避けて通れない。理念を実現するための現実的な手段として受け止めることができた。

 最後に、あとがきで紹介されていた「社会的財務諸表」という考え方は非常に興味深かった。企業の社会的責任(CSR)が重視されて久しいが、それを社会的価値として可視化するという発想は、新しい評価軸になり得ると感じた。

 さらに、この考え方は企業だけに当てはまるものではない。自分自身にも応用できるのではないかと思う。これまで行ってきた防災活動や地域福祉活動としての実践、地域との関わりを「社会的財務諸表」として見える化すれば、自分がどれだけ地域に価値を生み出してきたのかを客観的に振り返ることができる。金銭的な利益だけでは測れない社会的信用や地域への貢献を可視化するという発想は、今後の地域づくりや福祉実践を考える上でも大きな示唆を与えてくれた。

 本書は、「関係人口」という新しい概念を紹介するだけの本ではない。人口減少時代における地域のあり方、都市と地方の関係性、そして地域のレジリエンスをいかに高めていくかを問いかける一冊であった。そして私自身にとっては、防災と地域福祉、さらには地域づくりを一つの線で結び直す契機となる本でもあった。

「富山こどもごちめし」の実証実験から見据える、本当に必要な支援のかたち

 

はじまった「富山こどもごちめし」の実証実験

 夏の訪れとともに、子育て世帯を取り巻く環境は大きな転換点を迎える。学校の給食がなくなる夏休みは、経済的な理由や保護者の多忙さを背景とした子どもの「食の空白」や栄養不足が深刻化する季節である。こうした地域課題の解決に向け、新たな一歩が踏み出された。

 県内企業を中心に推進されているオープンイノベーションプログラム「イノベーションクエスト」の採択事業―その名も「富山こどもごちめし」の実証実験が、7月25日にスタートした。

 本事業の核となっているのは、デジタルチケットの仕組みを用いて地域の飲食店を「子ども食堂」として機能させる、株式会社Gigi(東京)のプラットフォームである。県内の15歳以下の子どもを対象に、千円分の電子チケットを配布、総数3千食分の無料提供を掲げ、駅周辺のマリエとやま、マルート、アーバンプレイス、さらには北日本新聞本社10階の「レストランつるぎ」まで、計35店舗が加盟して8月末まで実証が進められる。申し込みは公式サイトを窓口とし、児童扶養手当受給世帯は4回、その他の世帯は1回利用できる仕組みだ。

 企業の寄付、飲食機関のネットワーク、商業施設の空間、そしてデジタル技術―これらが有機的に結びつくことで持続可能な子育て支援の循環を生み出す、まさに「地域エコシステム」の挑戦として、非常に先進的で希望に満ちた試みである。

 しかし、この画期的なプロジェクトの表舞台の裏側には、現代の福祉行政やデジタル社会のひずみがもたらす、見過ごすことのできない深い構造的課題が横たわっている。

良い点と、見逃せない課題

 本取り組みには、従来の福祉モデルにはない多くの優れた側面がある一方で、運用面や本質的なセーフティネットの観点から見逃せない課題も残されている。

〇良い点

既存インフラの最大限の活用: 専用の施設を新設・維持するのではなく、駅ビルや地域の既存の飲食店(計35店舗)をそのまま「子ども食堂」として機能させることができる。都市部のアクセスの良い店舗ネットワークを一斉に巻き込める点が画期的である。

プライバシー(スティグマ)の保護: 一般客と同じ空間やメニューをデジタルチケットで利用できるため、周囲に知られる心理的ハードルを大きく軽減できる。

官民一体の持続可能なエコシステム: ベンチャー企業、地方銀行、地元のメディア、商業ビル、そして企業の寄付を組み合わせ、行政単独では難しい機動的な財源と仕組みを作っている。

「食の空白期間」へのピンポイントなアプローチ: 給食がなくなる夏休みという時期に焦点を当て、子育て世帯の経済的負担をピンポイントで支えるセーフティネットになり得る。

△残る課題

デジタルデバイドとアクセスの壁: スマホや通信環境が不可欠であり、本当に支援を必要とする世帯ほど「機器の有無」「通信容量の制限」に阻まれる危険性がある。

「個人情報の壁」と支援のすれ違い: 不正利用防止のための厳格な受給証明やオンライン手続きが、行政や支援の網の目から漏れている「見えない困窮世帯」をかえって遠ざけてしまうジレンマがある。

総数や利用回数の限界: 3千食という規模や「一般世帯は1回まで」といった制限では、長期化する長期休暇の根本的な栄養・生活支援としては一時的なものにとどまる懸念がある。

 そして何より、現場に立つ者が直面する最大の疑問は、「このような支援を本当に必要としている家庭に、そもそもどうやって情報を届ければいいのか」という点である。

スマホ・PCの普及率と「情報へのアクセス」の決定的な違い

 「現代は一世帯に一台以上スマートフォンがある時代であり、世帯全体の普及率は9割を超えている」―マクロな統計や一般的な行政の認識では、このように語られがちである。

 しかし、「スマートフォンを物理的に所有していること」と「必要な行政・支援情報にアクセスし、自ら手続きを完了できること」の間には、埋めがたい深い溝が存在する。

 ここで見落とされがちなのが、行政データの構造的な抜け落ちと、情報の古さである。例えば、かつて平成23年度の総務省「情報通信白書」などの古い資料を遡れば関連する記載を見つけることはできるが、今日の急速なデジタル化が進む社会において、現代の「ひとり親世帯のスマホ保有率や活用実態」を的確に捉えた定点観測データは、公的統計のなかにほとんど見当たらない。

 国の福祉行政(厚労省やこども家庭庁など)の視点は、生活困窮や虐待、養育費の確保といった「命や暮らしの危機」の対応が最優先されがちであり、デジタル環境の実態把握は後回しになってきた。一方で、総務省やデジタル庁が主導するインフラ普及やデジタル活用の議論も、全体のマクロな数値や高齢者のリテラシー格差の解消が主軸になりがちである。

 結果として、「ひとり親世帯×デジタル格差」の交差点にある実態データは、アップデートされないまま公的統計の網の目からすっぽり抜け落ちてしまっているのが現実である。

 実際の生活現場では、生活保護世帯やひとり親世帯であっても、学校の連絡網、求職活動、最低限の社会生活のために、スマートフォン自体は何とかして持っているケースが大半だ。そのため、行政や社会の側は「みんなスマホを持っているのだから情報も届いているはずだ」という前提を持ってしまう。


 結果として何が起きるか。「声を上げられない家庭」「行政の網の目から漏れている家庭」が、公的データの統計に捉えられないまま、完全な孤立状態のまま支援の輪の外側に置き去りにされてしまうのである。

 申請が「公式サイトからのオンライン手続き」を前提としている時点で、日々の生活に追われてインターネットを検索する習慣のない家庭や、情報の網の目から外れた家庭は、スタートラインにすら立てない。制度や仕組みがどれほど素晴らしくても、その入口にたどり着けない人々が確実に存在するという現実を、私たちは直視しなければならない。

「常時接続」と「情報格差」のねじれ、そして「認知的負荷」

 「これだけスマホが普及しているのだから、調べればすぐに分かるはずだ」「なぜ情報をキャッチしに行かないのか」―こうした疑問は、支援を行う側や一般的な感覚からすればもっともに思えるかもしれない。しかし、ここには「常時接続」と「情報格差」の大きなねじれが存在する。

 ノンフィクションや実際の支援現場(例えば「東京貧困女子。」などで描かれてきた世界)が示すように、生活に困窮し、慢性的な疲労や終わりのない不安を抱えている当事者たちの頭の中は、常に極限状態にある。

 日々の食費や光熱費のやり繰り、仕事のシフト、子育てのストレスに追われる中で、人間の脳の認知資源はすり減っていく。これを認知心理学では「認知的負荷」と呼ぶ。

 この状態にある人がスマートフォンを開いたとき、そこに広がるのは「支援情報の検索画面」ではない。むしろ、日々の過酷な現実から束の間逃れられるSNSのタイムラインや、手軽に脳の報酬系を満たしてくれるゲーム、動画のコンテンツである。

 「いつもスマホを覗いてはいるものの、情報は集めず、エンタメやSNSに時間を費やしているように見える」―その現象の背景にあるのは、怠慢でも情報不足でもない。「複雑な情報を読み解き、公的な申請手続きを行うための認知的エネルギー(余力)が、日々のサバイバルによって完全に枯渇している」という、極めて過酷な構造的限界なのである。

 自ら能動的に動くことができない。わかっているけれど、システムの壁を突破する気力が湧かない。この層に対して「自己責任」のレッテルを貼ることは簡単だが、それではいつまで経っても本質的な解決にはたどり着けない。

「待つ支援」から「出向く支援(アウトリーチ)」への転換

 では、この構造的ジレンマをどう突破すればよいのか。

 行政や民間事業者が「優れた仕組みを作ったのだから、あとは公式サイトを見て申し込んできてください」と待ちの姿勢(申請主義)をとっている限り、本当に救うべき人たちは永遠にこぼれ落ち続ける。

 必要なのは、支援者側からの圧倒的なアプローチの転換、すなわち「待つ支援」から「出向く支援(アウトリーチ)」へのシフトである。

①プッシュ型の仕組みづくりと情報の直結

 本人の能動的な検索や複雑なオンライン申請を前提とするシステム自体を見直す必要がある。例えば、すでに児童扶養手当の受給世帯として行政が把握できている層に対しては、複雑な応募フォームを踏ませるのではなく、デジタルチケット付きの案内や二次元コードが自動的に自宅のポストに届くような「プッシュ型」の仕組みを構築することはどうだろうか。

②子育て現場が持つ「ハブ」としての役割

 行政や社協の窓口、あるいはデジタル上のシステムだけでは、どうしても零れ落ちる隙間が存在する。そこで決定的な役割を果たすのが、地域のリアルな拠点である子ども食堂や、学校、学童保育、民生委員といった、生活の現場に根ざしたプレイヤーたちだ。

・「申請してください」と突き放すのではなく、「これ、よかったらどうぞ」というおすそ分けといった、警戒心を持たれにくいカジュアルな接点から関係性を築く。

・デジタル環境や操作が苦手な保護者に寄り添い、その場でスマホやタブレットの操作を代行・伴走する。

最後に

 「富山こどもごちめし」をはじめとする行政と民間事業者の連携による新しい試みは、地域の食を支えるインフラとして大きな可能性を秘めている。しかし、その光が強ければ強いほど、システムや情報の網の目からこぼれ落ちてしまう人々の存在がぼやけてしまう。

 自ら手を挙げて助けを求めることができない人々を「自己責任」として遠ざけるのではなく、私たちは「なぜその人が声を上げられなくなっているのか」という社会の歪みに目を向け、誰もが孤立しない関係性をどう編み直していくべきかを問われている。

 デジタル技術の持つ圧倒的な利便性と、地域の現場に根ざした人間臭いアウトリーチ。この二つを対立させるのではなく、どうすれば温もりを持った架け橋としてつなぎ合わせることができるのか。

 制度やシステムの向こう側に取り残された小さなサインに気づき、一人ひとりの日常の隣にそっと寄り添いながら歩みを進めていくこと―それこそが、これからのオープンイノベーションや地域福祉に求められている、真の挑戦なのではないだろうか。

空の玄関口が仕掛ける、富山の「賭け」

富山に激震、空港名の「大胆すぎる」刷新

 富山県民の誰もが驚いたであろう、7月8日のニュース。新田八朗知事が発表した、富山空港の愛称「富山きときと空港」から「富山高山すし空港」への変更。SNSや街角では、驚きと戸惑い、そして「そこまでやるのか」という複雑な声が渦巻いています。長年親しんだ愛称を変えてまで、富山は何を追い求めようとしているのでしょうか。

富山空港の現状と「攻め」の理由

 現在の富山空港は運営権が民間に委託(コンセッション方式)されており、かつてのような「公募による市民参加型」のネーミングとは一線を画す、シビアな経営判断がなされました。
 背景にあるのは、右肩下がりの利用者数をV字回復させるという喫緊の課題です。インバウンド市場において、地方空港が生き残るための「逆転の一手」。それが、あえて他県の地名「高山」を掲げ、外国人にも直感的に伝わる「Sushi」を組み合わせるという、極めて戦略的なマーケティング戦略なのです。

高山から見る「昇龍道」の圧倒的熱量

 以前、飛騨高山を訪れた際、その賑わいに圧倒されました。多くのインバウンド客が専用バスで詰めかける光景。彼らの多くは名古屋(中部国際空港)から入る「昇龍道(ドラゴンルート)」というルートを活用しています。
 これは、中部北陸9県が協働して取り組む広域観光プロジェクト。この強力な既存ルートに対し、富山空港はどう対抗するのか。現状のインバウンドの導線を、いかに富山経由へと引き寄せるかが鍵となります。

新ルートの可能性:「富山から入る」必然性を作る

 新田知事が「二次交通の課題は山積している」と認めた通り、看板を変えただけでは客は動きません。しかし、もし「富山空港発→高山着」のダイレクトな二次交通が整備されれば、形勢は変わります。

・物理的距離の利点: 名古屋経由よりも、富山空港からの方が高山エリアは近いという「時間的優位性」の周知。

・体験の対比: 「富山湾の海の幸(すし)」という強烈な体験と、「高山の歴史・飛騨牛」という山岳文化の対比。

 これらをセットで提供し、富山を単なる通過点ではなく、「海と山を両方楽しむための拠点」として意図的にコントロールすること。これが富山の描く「道」でしょう。

まとめ:名前に魂を込めるのは、私たちだ

 「富山高山すし空港」という名前が、単なる「名前貸し」で終わるか、富山に経済的恩恵をもたらす起爆剤となるか。それは、今後整備される二次交通の快適さと、私たち富山県民が現地で提供する「富山の自然・食材・人」という体験の深さにかかっています。
 看板を掛け替えた今、次に試されるのは、富山県民一人ひとりが、この地を訪れる人々にどのような「物語」を提供できるかという、地域としての受け入れ力ではないでしょうか。

「AIは仲間になれるのか」―介護DXが日本で成功するために必要な視点

 厚生労働省は、在宅介護サービス事業者向けのデータ連携システム「ケアプランデータ連携システム」、通称「ケアプー」の導入率が5月末時点で45.1%に達したと発表している。この数字だけを見ると、介護現場のデジタル化は順調に進んでいるように思える。
 しかし、現場の最前線にいる私たちは知っている。この数字の裏側にある冷ややかな空気を。
「導入はしたけれど、ほとんど使っていない。」
「結局、紙で管理している。」
「加算のために入れただけ。」
「入力する仕事が増えただけだった。」
 つまり、「導入」と「活用」の間には大きな隔たりがある。
 この原因を、「職員は機械が苦手だから」「操作方法が難しいから」と片付けてしまうのは簡単だ。現場の職員が拒絶しているのはICTそのものではなく、「現場の空気感を無視して押し付けられる、無機質な管理」そのものなのではないだろうか。
 現場の職員が拒否しているのは、ICTそのものではない。
「また上から新しい仕事を押し付けられた。」
「現場のことを知らない人が作った仕組みだ。」
 そんな感情の積み重ねこそが、本当の拒絶反応なのだと思う。
 そして今、介護業界にはさらに大きな波が押し寄せている。
 AIである。
 記録作成、ケアプラン作成、相談援助、リスク分析、情報共有。AIはこれから数年で介護現場に急速に入り込んでくるだろう。しかし、そのAIまで「また面倒なシステムが増えた」と受け止められてしまえば、日本の介護DXは失敗する。
 では、私たち日本人は本当にAIを受け入れられないのだろうか。
 私はむしろ逆だと思う。

 

日本人は昔から「機械」と仲良くしてきた

 私たち日本には八百万の神という考え方がある。
 山にも川にも木にも道具にも神が宿るというアニミズムの世界観である。古くなった針を供養する針供養や、長年使った道具に感謝する風習もその延長線上にある。
 物は単なる物ではない。長く付き合えば、そこに人格のようなものを感じる。だから、日本では機械ですら擬人化される。
 「鉄腕アトム」は人類を滅ぼす存在ではなく、人間を助ける少年だった。
 「ドラえもん」も未来のロボットでありながら、のび太の親友として描かれている。
 西洋のロボット像とは大きく異なる。
 最近では「初音ミク」を代表とするボーカロイドやYouTube等で流行している「ゆっくり」や「ずんだもん」のようなキャラクターも、多くの人から親しまれている。
 最新技術でありながら、私たち日本人はそこに人格を見いだし、一緒に創作し、会話し、成長する存在として受け入れている。
 卑近の例であるが、我が家にもロボット掃除機がある。その動きから、既に我が家ではペットとして市民権を得ている。
 つまり、日本人には技術を「人格の延長」として受け入れる素地が、昔から備わっているのだ。私たちはアトムやドラえもんと共に成長し、ゆっくりやずんだもんと共に生活している。私たちはAIを、「物語を分かち合うパートナー」として迎え入れる準備ができているはずなのだ。

最新技術を恐れる西洋、共存する日本

 一方、西洋文化には少し違う背景がある。
「ターミネーター」ではサイボーグは人類を滅ぼそうとする。
「マトリックス」では、人間は人工知能に支配される存在として描かれる。
 そこには、「人間が作ったものが人間を超えてしまうこと」への強い恐怖がある。だから、AIは厳密に管理されるべき存在であり、人間の命令に従う「使用人(コンシュルジュ、サーバント)」という発想が生まれやすい。確かに、その考え方は合理的である。
 しかし、日本では必ずしもそれが最適解とは限らない。AIを奴隷のように扱うのではなく、「頼れる相棒」として迎え入れる方が、日本人には自然なのではないだろうか。
 人間にも苦手なことがある。
 AIにも苦手なことがある。
 利用者の表情の微妙な変化や、家族の気持ち、人生経験から生まれる「なんとなく気になる」という感覚は、人間の得意分野だ。一方で、膨大な制度改正を整理したり、記録を要約したり、過去のデータから傾向を分析したりすることはAIが得意である。
 どちらが上でも下でもない。互いに不得意を補い合う関係こそ、本来あるべき姿ではないだろうか。

AIは「私たちの一員」になれる

 私は、介護現場のAIは「効率化ツール」として売り込むべきではないと思っている。
 現場の職員は、もう十分効率化を求められてきた。記録を簡素化すると言われ、新しいシステムが入り、気が付けば入力項目だけが増えていた。そんな経験を何度もしてきたのである。だから、AIにも警戒する。
 しかし、「あなたの仕事を減らす機械」ではなく、「一緒に悩んでくれる仲間」と説明されたらどうだろう。
 例えば、夜勤明けで頭が回らない時に記録をまとめてくれる。制度改正を分かりやすく整理してくれる。利用者の過去の情報を短時間で要約してくれる。「この利用者さん、最近こんな変化がありますね」と教えてくれる。
 もちろん、間違えることもある。だから、人間が確認する。まるで新人職員を育てるように。そしてAIも、人間から学び続ける。
 そうした関係性であれば、多くの介護職は自然と受け入れられるのではないだろうか。

日本だからこそできる介護DX

 介護DXという言葉は、どうしても「効率化」「コスト削減」「人手不足対策」という文脈で語られがちである。しかし、本当に目指すべきものはそこではない。
 デジタル化によって生まれた時間を、利用者との会話に使う。AIに事務作業を任せ、その分、人にしかできないケアに集中する。
 人間らしさを失うためのDXではなく、人間らしさを取り戻すためのDX。それこそが介護の本質ではないだろうか。
 日本には、機械や道具と共に生き、感謝をしてきた文化がある。だからこそ、世界中で論争になっている「AIに奪われる社会」ではなく、「AIと共に支え合う社会」を、私たち日本人は提示できると私は信じている。
 もし、そのような介護DXが実現できれば、日本は世界に対して新しいAI活用モデルを示せるかもしれない。AIに仕事を奪われる社会ではなく、AIと共に利用者を支える社会へ。
 介護という、人の温もりが何よりも大切な仕事だからこそ、日本らしいAIとの共生が最も生きる分野なのではないかと、私は考えている。

消費税減税で農家が3000億円減収?―ニュースを読んで感じた違和感

 北日本新聞(令和8年6月14日付朝刊)で、「食品消費税を1%に引き下げた場合、中小農家の手取りが年間3000億円以上減る恐れがある」という記事を読んだ。

 記事によれば、消費税率が8%から1%へ下がることで、免税事業者や簡易課税事業者となっている農家が受け取っている消費税相当分が減少し、全国約80万人の農業者で合計3000億円超の減収になるという。平均すると一農家当たり約40万円の手取り減となり、離農につながる可能性も指摘されていた。

 しかし、記事を読んでいて率直に感じたのは、「本当にそれほど深刻なのだろうか」という疑問だった。

「3000億円」という数字の意味

 まず確認しておきたいのは、記事で示されている3000億円という数字は、農家の利益が3000億円失われるという意味ではないことである。

 現在、売上1000万円以下の免税事業者は、販売時に受け取った消費税を納税せずに済むため、その分が実質的な収入になっている。消費税率が下がれば、その収入部分も減る。記事の試算は、この減少分を積み上げたものだ。

 もちろん、当事者にとっては現実の収入減であり、軽視すべきではない。しかし、それは「農業経営そのものが成り立たなくなる」という話とは必ずしも同じではない。

小規模農家の実態

 ここで考えなければならないのは、小規模農家の多くが高齢者であるという現実だ。年金を受給しながら農業を続けているケースも少なくない。もちろん農業所得だけで生計を立てている専業農家もいるが、多くの小規模農家は年金やその他の収入と組み合わせて生活している。

 そのため、平均40万円の減収という数字だけを見て「離農が発生する」と結論付けるのは早計ではないだろうか。

共同通信の記事では

 さらに興味深かったのは、共同通信の記事には、

「補助金の支給など農家の支援も併せて検討する」

という一文が含まれていたことである。

 私が読んだ北日本新聞の記事にはこの部分が見当たらなかったが、もし政府が減税と同時に補助制度を導入する方向で検討しているのであれば、話は大きく変わってくる。

 記事だけを読むと、

・農家の手取りが3000億円減る
・高齢農家に打撃を与える
・離農が進む

という印象を受ける。

 しかし、

・政府も影響を認識している
・補助金などの支援策を検討している

という情報が加われば、「制度変更に伴う副作用への対応策も議論されている」という見方になる。

 同じ事実でも、受ける印象はかなり異なる。

問題の本質

 私は、そもそもこの問題の本質は農業政策というより税制にあると思う。

 現在の制度では、免税事業者や簡易課税事業者にとって、消費税の一部が事実上の収入になっている。今回の記事は、その収入部分が減ることを問題視している。

 しかし、本来の消費税は事業者の利益ではなく、消費者が負担する税金である。

 そう考えると、論点は「農家を支援するべきかどうか」ではなく、「農家支援を消費税制度の中で行うべきなのか、それとも補助金などの形で透明に行うべきなのか」ということになる。

 私自身は、高齢化が進む小規模農家への配慮は必要だと思う。しかし、その支援は税制の歪みを温存する形ではなく、補助金や所得支援として明確に行う方が分かりやすいのではないかとも感じる。

最後に

 ニュース記事はしばしば大きな数字を見出しに使う。

 今回も「3000億円減収」という数字は非常にインパクトがある。しかし、その数字が何を意味し、実際にどのような人々にどれほどの影響を与えるのかを考えると、見出しから受ける印象ほど単純な話ではなく、直ちに農業崩壊や大量離農を意味するわけではないことも分かる。

 重要なのは数字の大きさに驚くことではなく、その背景にある制度や実態を理解することだろう。

「やる気のある人」という免罪符~組織が「30%の壁」を突破すべき理由~

 

1. はじめに:ある組織の総会での「ざわつき」

 先日、私が会員として所属している、とある防災組織の年次総会に出席した。

 新年度の活動方針や予算案が審議される中、一般会員の席から、組織の根幹に関わる質問が投げかけられた。
 「幹部の役割分担が見えない、可視化してほしい」という趣旨の質問だった。

 この組織には「インクルーシブ部」という、防災において「どのような人も置き去りにしない、漏らさない」ことを理念に掲げる専門部会が設置されている。地域福祉や多様な住民の生存権を守る防災組織として、役員の役割を透明化し、多様な人材が参画しやすくすることは、極めて真っ当で、むしろ不可欠な問題提起であると感じた。

 しかし、その質問に対する幹部からの回答を聞いた瞬間、私の心は少し「ざわつき」を覚えた。

 回答は、以下のようなものだった。―「やる気のある人材に任せたい」

 一見すると、この回答は耳障りが良く、能力主義に基づいた公平なもののように聞こえるかもしれない。「やる気があるなら、性別や年齢に関係なく誰でもウェルカムだ」という、オープンな姿勢を示しているようにも思える。

 だが、本当にそうだろうか。
 長年、地域活動や前時代的な日本の組織構造を見てきた身として、また、被災地の最前線に関わってきた一人の実践者として、私はこの「やる気」という精神論の裏に隠された、根深い構造的課題と無自覚な排除のメカニズムを強く感じ取ってしまったのだ。この言葉は、既存の男性中心・年功序列の体制を無意識に維持するための「免罪符」として機能してしまう危うさを孕んでいる。

 本稿では、この「やる気」という言葉が持つ危うさを、組織行動学や社会学の理論、そして実際の災害現場での教訓から紐解き、なぜ地域の防災組織が組織そのものの「インクルーシブ化」を急がねばならないのかを論じたい。

2. 数字が隠す罠:会員と幹事の男女比から見える「現状」

 まず、私が参加した組織の現状を、客観的な「数字」から見てみたい。

・全会員の男女比:男性 約72%、女性 約28%

・幹部の男女比:男性 80%、女性 20%

 この数字をパッと見たとき、多くの人はこう思うかもしれない。
 「全体の3割弱が女性なのだから、幹部の2割が女性というのは、大体比率に沿っているのではないか。極端な男尊女卑があるわけでもないし、バランスは取れているように見える」と。

 しかし、組織のダイナミクス(動態)を研究する社会科学の視点に立つと、この「20%」という数字が持つ意味は、決して「人数の割合に沿った健全な状態」などではない。むしろ、もっとも不安定で、マジョリティの文化に押し潰されやすい、危うい境界線に位置しているのだ。

 なぜ「割合通りだから問題ない」と言えないのか。それを鮮やかに説明してくれるのが、社会学や組織行動学において重要な概念として扱われる「クリティカル・マス(Critical Mass、臨界質量/閾値)」である。

3. ロジャーズのイノベーター理論とカンターの組織理論

 「クリティカル・マス(Critical Mass、臨界質量/閾値)」とは、もともと物理学の用語であるが、1962年にアメリカの社会学者のエベレット・М・ロジャース(Everett M. Rogers)が提唱した「イノベーター理論」の中で、社会現象やイノベーションの普及を説明する重要な概念として位置づけられた。

 新しい商品、サービス、あるいは「アイデアや文化」が社会に定着する際、ある一定の普及率を超えた瞬間に、爆発的な勢いで全体に広がり始める「普及の分岐点」が存在する。ロジャースの理論では、市場の先駆者である「イノベーター(2.5%)」と、それに続く「アーリーアダプター(13.5%)」を足した「16.2%」が、この最初のクリティカル・マスであるとされる。

 この理論は製品の普及だけでなく、組織改革やダイバーシティ(多様性)推進などの社会現象にも広く応用されている。特に、組織の意思決定プロセスにおいて、マイノリティ(少数派)の意見を単なる「個人の意見」ではなく「組織の決定」へと反映させるためには、「全体の約30%」という別の大きなクリティカル・マスの閾値が存在することが知られている。

 この「30%の壁」を、より組織内の力学として具体的に体系化したのが、アメリカの社会学者のロザベス・モス・カンター(Rosabeth Moss Kanter)である。

 カンターは、組織内に占めるマイノリティ(例:男性社会における女性)の割合によって、組織の特性を以下の4つに分類した。

・一意的組織(Uniform Groups:マイノリティが0%):完全に均質な集団。

・象徴的組織(Skewed Groups:マイノリティが1%~15%):マイノリティは「トークン(象徴・お飾り)」として扱われ、過度なプレッシャーをかけられるか、あるいは発言を無視される。

・傾斜的組織(Tilted Groups:マイノリティが15%~35%):数は増えたが、依然として圧倒的なマジョリティの「既存のルール」に従うことが暗黙のうちに求められる。

・均衡的組織(Balanced Groups:マイノリティが35%~50%):特別な配慮が不要になり、多様な意見がごく自然に反映される。

 このカンターの理論を当てはめると、当組織の幹部構成「20%」は、まさに「傾斜的組織」の段階にある。

 「傾斜的組織」において、20%のマイノリティは確かに存在感を示し始める。しかし、意思決定の主導権は依然として80%のマジョリティ(この場合は男性層)が握っている。この段階では、既存の文化(年功序列、前例踏襲、精神論)が強固に残り、20%の側が「マジョリティのルールに自分を合わせること」を強いられる。

 だからこそ、総会での「やる気のある人に任せたい」という回答が危ういのだ。
 これは、20%しかいない女性に対して、「従来のやり方に文句を言わずにコミットする、そんな『従来の基準におけるやる気』を見せてみろ。それが出せるなら幹部にしてやる」と言っているに等しい。

 構造的な障壁(家事・育児・介護の負担の偏り、役割の不透明さによる心理的ハードル)を放置したまま、個人の「やる気」という精神論にすり替えることは、現状の男性8割の体制を温存するための論理に他ならない。この「20%」という数字は、あと数人が辞めるだけで、一気に「象徴的組織(トークニズム)」へと逆戻りしてしまう、非常に脆弱な閾値なのである。

4. 現場からの証言:能登の教訓と災害ソーシャルワークの視点

 では、なぜ防災組織において、この精神論を打破し、クリティカル・マスである「30%」を突破しなければならないのか。それは、単なるリベラルな理想論や「形を整えるためのジェンダー平等」ではない。平時の地域防災活動のみならず、災害時という極限状態において、住民の「命」と「尊厳」を守りきるための、極めて実践的な生存戦略だからである。

 私はこれまで、能登半島の被災地の支援現場に何度も足を運び、泥出しや物資搬送、地域イベントのサポートなどに関わってきた。そこで目撃したのは、既存の組織が思考停止に陥る中で、女性たちが前線に立ち、圧倒的なスピード感と柔軟さで物事を進めていくリアルなリーダーシップの姿だった。

 被災した生活者のリアルな困りごとに直面したとき、彼女たちは「前例がないから」「手続きが」などとは言わない。目の前の命や生活を救うために、ネットワークを駆使し、泥臭く、しかし極めて合理的に現場を動かしていた。人員不足に喘ぎ、旧来型組織が空回りするのを尻目に、女性リーダーたちがコミュニティの維持と復興の最大の推進力になっていた事実は、私の脳裏に強烈に焼き付いている。

 また、以前受講した「災害ソーシャルワーク」の講習において、実際に数々の修羅場をくぐり抜けてきた講師の先生方が異口同音に訴えていたのも、まさにこの「意思決定層への女性登用の絶対的必要性」だった。

 災害時という極限状態において、避難所では多様な被災者のニーズが噴出する。

・生理用品や下着の不足、配給時のプライバシー

・安全で人目のつかない授乳室や更衣室の確保

・避難所におけるドメスティック・バイオレンス(DV)や性被害を防ぐための防犯対策・夜間巡回

・高齢者、障がい者、乳幼児を抱える家庭への福祉的ケア

 これらの課題は、生活の細部(ライフラインとしてのケア労働)に日常的に関わっていない、従来の男性中心の視点だけでは、どれほど悪気がなくても「そもそも気付き得ない(視界に入らない)」領域なのだ。

 ある避難所で、男性リーダーが「物資の段ボールは届いているから問題ない」と判断した裏で、女性たちが「男性の目を気にして生理用品を取りに行けない」「授乳ができずに困っている」という声をすくい上げ、配置を変更したという事例は枚挙にいとまがない。

 防災において「どのような人も取り残さない(インクルーシブ)」を本気で実現するためには、多様なリスクを予見できる「視点」そのものが、組織における最高の専門スキルとなる。そしてその視点は、意思決定層(幹部)のなかに当事者としての割合(30%以上のクリティカル・マス)が確保されて初めて、組織の「標準OS」として機能し始める。

 男性中心の年功序列組織のままでは、災害時にそもそもの人員が足りなくなるだけでなく、多様なニーズを見落とし、組織全体が間違った方向へ、あるいは機能不全へと空回りしていくリスクが極めて高い。ここ10~20年で、社会の常識(ジェンダー平等、コンプライアンス、多様性への配慮)は劇的に変化した。発足当時のままの常識にしがみつくことは、地域を守るべき防災組織として「最大の脆弱性」を抱えることと同義なのである。

5. 提言:まずは幹部の男女比「70:30」の閾値を目指そう

 「インクルーシブ」と銘打つ部会があるのなら、組織のガバナンス(統治)自体もインクルーシブでなければならない。支援のインクルーシブは、組織のインクルーシブからしか生まれないからだ。

 総会での不透明な役員登用の実態や、個人の精神論に終始する回答に対して私が抱いた「ざわつき」を、ただの愚痴で終わらせるつもりはない。この違和感こそが、組織をアップデートするための変革の種火である。

 私はここに、我が防災組織が目指すべき具体的なマイルストーンとして、「幹部の男女比『70:30』の絶対的確保」を提言したい。

 「やる気のある人に任せる」という精神論を排し、30%というクリティカル・マスの閾値を突破するために、以下の2つのアプローチを構造的に進めるべきである。

①「役割の明文化」と「業務の標準化」(アーリーマジョリティへの橋渡し)
 総会で質問が出た通り、「幹部の役割が見えない」「登用プロセスが不透明」な状態は、新しく参画しようとする女性や若手にとって「過度なリスク」でしかない。何をさせられるか分からない闇の中に、わざわざ飛び込む人はいない。
 各役職の業務内容(タスク、想定コミット時間など)をマニュアル(手順書)として徹底的に可視化・標準化すること。これにより、「この役割、この時間内なら自分にも貢献できる」という予見可能性が生まれ、ロジャースのいう「アーリーマジョリティ(慎重だが納得すれば動く層)」の女性たちが手を挙げやすくなる。
②クオータ制(割当制)の規約明文化
 幹部の女性比率を、現在の会員比率(28%)をカバーし、組織行動学的な閾値となる「最低30%以上」と規約で義務付けること。
 「時期尚早だ」「能力主義に反する」という反発もあるだろう。しかし、地域防災において「多様な視点を持っていること」それ自体が必須の能力(スキル)である。枠を先に設定(構造を改革)するからこそ、イノベーションの定着は爆発的に進む。

6. おわりに:古い常識を手放すために

 地域活性化や防災は、生活そのものである。

 生活を支える組織のトップが、全体のディテールを知らないマジョリティだけで占められている不自然さに、私たちはもっと敏感になってもいいのではないか。
 過去の成功体験など、「古い常識」を少しずつ手放していくこと。それこそが、災害時に「誰も取り残さない」地域社会を作るための、最初の一歩であると考える。

 能登の最前線で見たあの女性たちの力強いリーダーシップ、そして災害ソーシャルワークが教える冷徹な現実こそが、これからの未来の正解であると確信している。この「ざわつき」を羅針盤にして、一歩ずつ進めていけたらと思う。

祝日のコンベアから降りる日―なぜ「私のための休日」は存在しないのか

 ゴールデンウィーク。子ども達を連れて出掛けた。「今日はどこ行く?」そんな嬉しそうな声に応えたくて、朝から車を走らせる。

 けれども、道路は渋滞。駐車場は満車。ようやく着いた先も、人、人、人。

 昼食を取るにも長蛇の列。入口に並び、レジに並び、トイレに並ぶ。家族で楽しい時間を過ごすために来たはずなのに、気付けば、ただ人の流れに押し流されている。

 その時、ふと思った。これは休日なのだろうか。それとも、巨大なベルトコンベアに載せられた荷物なのだろうか。いや、もっと率直に言えば、出荷前のニワトリのような気分だった。

 自由を求めて出掛けたはずなのに、なぜこんなにも不自由なのか。

「休まされている」という違和感

 混雑していると分かっていても、私たちはゴールデンウィークに動く。

「せっかくの連休だから」
「子どものためにどこかへ連れて行かなければ」
「みんな出掛けているのだから」

 そんな無言の空気に背中を押される。もちろん、それは誰かに強制されているわけではない。けれども、確かに、そこには見えない圧力がある。

 私はこれを、祝日のパターナリズムではないかと思う。パターナリズムとは、「本人のためになる」と考えて、他者が善意で介入することだ。

 日本の祝日制度は、とても親切だ。

「この日は休んでいいですよ」
「この日は家族を大切にしましょう」
「この日は高齢者を敬いましょう」

 どれも立派な理念である。

 しかしその一方で、そこには、「何を、いつ、どう祝うべきか」を社会が先回りして決めている、という側面がある。

 私たちは休んでいるようで、実は「休まされている」のかもしれない。

祝日は、誰かのためにある

 少し考えてみる。日本の祝日には、さまざまな意味が込められている。

・元日
・建国記念の日
・こどもの日
・敬老の日
・勤労感謝の日

 どれも大切だ。しかし気付く。そこにはいつも、何らかの役割や属性がある。子ども。高齢者。労働者。国民。家族。

 では、ただの「私」を祝う日はあるだろうか。

 親でもなく、労働者でもなく、社会的役割を一旦脱ぎ捨てた、一人の個人として存在することを認める日。

 そんな日は、意外なほど存在しない。

自由には二つある

 政治哲学者のアイザイア・バーリンは、自由を二つに分けた。

 ひとつは「消極的自由」、他者から干渉されない自由。
 もうひとつは「積極的自由」、自分で自分の生き方を決める自由。

 日本の祝日は、確かに「休んでよい」という消極的自由を与えてくれる。けれども、本当に必要なのは、積極的自由ではないだろうか。つまり、「私はいつ、なぜ、どのように休むのか」を自分で決める自由である。

 私たちは休む自由を与えられている。しかし、休むタイミングを選ぶ自由は、案外持っていない。

J.S.ミルが見た「静かな専制」

 経済学者・哲学者のJ.S.ミルは「自由論」の中で、他者に危害を加えない限り、個人は自己の生き方を選ぶべきだと説いた。そして彼が警戒したのは、国家の圧力だけではない。社会多数派による「静かな専制」だった。

 たとえば、
「連休なのにどこにも行かないの?」
「せっかくの休みを無駄にしている」
「平日に休むなんて、周りに悪い」

 こうした空気。法律ではない。命令でもない。けれども、確かに、人を縛る。これはモラリズムだ。「こうあるべき」という価値観を、無意識に他者へ押しつけること。

 もし、休日にまで「正しい過ごし方」があるとしたら、それはもはや休息ではなく義務だ。

世界には「自分で選ぶ休日」がある

 実は、こうした発想はすでに世界で広がっている。

 アメリカやイギリスなどの外資系企業では、フローティング・ホリデー制度を導入する例がある。会社が固定日を指定するのではなく、従業員が自分にとって意味のある日に休む制度だ。

 また、インドには「RH(制限付き休日)」がある。ヒンドゥー教、イスラム教、シク教、キリスト教、仏教―多様な宗教文化が共存する社会では、国家が一律に「この日を祝いなさい」と決めきれない。だから個人が選ぶ。これは宗教的多様性への配慮だ。

 だが、私は思う。これは宗教だけの話ではない。生き方そのものの多様性にも通じるのではないか。

「個の祝日」をつくろう

 ここで、私は提案したい。

 公的に認められた個人選択制休日―いわば「個の祝日」を。

 理由は問わない。誕生日でもいい。静かに本を読みたい日でもいい。何もしたくない日でもいい。人生を立ち止まって考えたい日でもいい。

 ただ、「今日は私のために休む」、そう決められる日。それは単なる有給休暇ではない。個人の尊厳を社会が認める制度である。

コンベアから降りる勇気

 子どもの日も、敬老の日も、勤労感謝の日も大切だ。けれども、その前に、私たちはまず、一人の個人ではないだろうか。

 親だから。労働者だから。社会の一員だから。そうした役割をいったん脱ぎ捨て、ただ「私」であることを祝う日。そんな休日があってもいい。

 巨大な祝日のコンベアから、静かに降りる。そして、宣言する。

「今日は、私のために休む」

 本当の自由とは、誰かに与えられた休みではなく、自分で選び取る休みにこそ宿るのだと思う。

 

追記)

 この文章を書き終えたところで、台所から妻の声がした。

「ゴミ集めてきて」

 そこに命令口調はない。圧力もない。否定的なサンクションもない。それなのに私は、ほとんど反射的にこう答えている。

「はい、ただいま」

 祝日のパターナリズムについて考えていたはずなのに、気付けば私は家庭という小さな社会制度の中で、見事に構造化された応答を返している。

 どうやら「祝日のコンベア」から降りるのは、そう簡単ではないらしい。